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2024.07.19

【連載】May’n Road to 20th Anniversaryインタビュー連載「Crossroad」:第1回 ホリプロスタッフ

【連載】May’n Road to 20th Anniversaryインタビュー連載「Crossroad」:第1回 ホリプロスタッフ

(写真左から)矢田部、堀、May’n、森、西尾

連載第1回は、全ての始まりである「ホリプロ・タレントスカウトキャラバン・ラブミュージック・オーディション」に立ち返り、中林芽依としてホリプロに加わったのちにメタモルフォーゼを果たし、May’nへと成長する姿を見守り続けた重要人物たち4名/堀義貴(ホリプロ・グループ・ホールディングス代表取締役社長CEO)、森章(ホリプロ代表取締役専務)、西尾聖(ホリプロ取締役)、矢田部行庸(ホリプロインターナショナル代表取締役社長)を迎える。May’nの活躍は、愛情に囲まれ、努力と根性の先に夢が舞い降りた結果と確信させる1対4者対談。

PHOTOGRAPHY BY 堀内彩香
TEXT BY 清水耕司(セブンデイズウォー)

悩む時間をレッスンとトレーニングに変える負けず嫌いで努力家

――3歳くらいから安室奈美恵さんに憧れて歌手を目指していたMay’nさんは、2003年の「ホリプロ・タレントスカウトキャラバン・ラブミュージック・オーディション」をきっかけに芸能界へと進みます。あらためてオーディションを受けると決めたときの心境から教えていただけますか?

May’n 9歳で初めてオーディションを受けて、1年に5、6本は受けていたと思います。ですので、ホリプロ・タレントスカウトキャラバン(以下、TSC)の存在も知っていたんですけど、2003年は初めて女性ボーカリストを育てるというテーマでオーディションが行われて。だったら受けてみたいと思いました。そのとき、私は名古屋の中学に通う2年生だったんですけど、本当は東京の堀越学園の中学に通っていたかったんです。でも当然、デビューの予定もないのに上京することは親に許してもらえなくて。だから、進路について聞かれたとき、絶対堀越高校に進学するって答えたんです。でも、夢なんて見ずに真面目に考えなさいみたいに言われて、これが最後のチャンスかもしれないと勝手に思っていたんです。なので、TSCの募集要項では15歳からだったんですけど、これで受からなかったら私は掘越に行けない、つまりデビューできないという想いで受けました。結局、堀越には行っていないんですけど、命を賭けるくらいの意気込みでしたし、一度区切りをつけなきゃいけないという気持ちもありました。

――堀会長やみなさんにお伺いしますが、当時のMay’nさんについてはどのような印象や記憶がありますか?

堀義貴 TSCのとき、グランプリ受賞者とは別に取りたいと思った子の中に彼女もいました。ただ、募集要項とは年齢が違っていたのだが賞を上げても良いのかどうか、という相談を受けたんですね。僕としては大した問題ではないから別にかまわないと答えたと思いますよ。だから、もしも厳密に行っていたら彼女はホリプロに入ってはいなかった。

西尾聖 ただ抜群に歌が上手かったですよ。ユニバーサルの藤倉(尚)氏が非常に評価していたことを覚えていますね。

 そう、歌唱力が素晴らしかったので、年齢で落としてしまうのはもったいないだろう、というところですね。

西尾 それにガッツがありますよね。スタッフの中でも、そこまでして受けてくれた、と感じる者がいたというところもありました。

森章 実際、ホリプロに入ってからも彼女は、我々が与えるものボーカルレッスンやダンスレッスンは当然として、それ以外にも、寮の横にあったプールへ毎日通うようなところもあって。

May’n えーっ、ばれてる!?

 プールに行きなさい、水泳をやりなさい、と言われたわけではないですよ。誰かから聞いたのか自分で調べたのか知りませんが、水泳は全身運動だからすごくいいということから自ら通っていました。しかも毎日。週1回や2回ならわかりますが。空いている時間があると夜でも行っていましたし、ポテンシャルがすごく高い以上のものを持っていましたね。

May’n 寮の近くにはジムもあって、そこの券を事務所からもらってもいたんですけど、ジムには寮の先輩も通っているので会うのが恥ずかしかったんですよね。頑張っていることがわかるじゃないですか? 変に負けず嫌いだったので、ジムに行きつつ、プールにも行っていました。

 これはTSCあるあるですが、グランプリを獲らなかったことが良かったかもしれない。合格したことで「やったー」とならなかったと思うんです。彼女にはものすごく悔しがり屋と頑張り屋が混在しているので、グランプリではないことが悔しかったと思うんですよ。

May’n 私の家はそれほど余裕がある方ではなかったので、歌のレッスンを自分では受けたことがなかったんです。だから、初めて歌のレッスンを受けたのはオーディション中のことでした。ホリプロに入ったあとも、デビューまでレッスンを受けさせてもらえて「ホリプロってすごい!」と思いましたし、ダンスを習った先生も安室奈美恵さんのサポートダンサーを長くされていた方だったので、そういうところでも業界に入ったことを実感してもいました。オーディション中には作詞作曲のレッスンもありましたし、だからレッスンを受けられるのが楽しかったんですよね。でもデビューして数年後からはレッスン費用を自分で払わないといけなくなったので、昼食代を節約するためにキャベツを一玉買って、お昼はそれをめくって食べていました。

矢田部行庸 キャベツ(笑)。

May’n ペリペリと(笑)。

西尾 『マクロスF』に決まる前もライブはやっていましたが、お客さんが……、ね。

May’n そうですね。2、3人くらいで。、

西尾 でも覚えているんですが、当時「表参道FAB」でライブをしているとき、たとえお客が一人だろうが二人だろうが彼女は絶対に手を抜かなかったですよ。だから、僕らが勉強になるというか考えさせられましたね。そうやってキャベツを食べていたという話を聞くと、申し訳なかったという気持ちになります。

 ドレッシングも買えないんでしょ?

May’n 買えないです。ただの生キャベツ(笑)。お金がないのでスタッフさんからよくCDを譲ってもらっていました。洋楽ももっと勉強したいけれど、今みたいに音楽が手軽に聴ける環境ではなかったので。もらったCDで勉強していましたね。

 事務所のエレベーター前で、2日や3日に1度は会っていたよね。また来ているのかと思っていた。

May’n そうですね。地下にスタジオがあったので。会長にはよくお会いしました。

――仕事がない中でモチベーションを保てた理由は何だったのでしょうか?

May’n なんでしょうね。でも、寮にいると活躍している人を間近で見させてもらえたので、売れていないならその人よりも努力しないといけないのは当たり前だと思っていましたし、空いている時間があれば、何かできることがあると考えていましたね。表参道FABでのライブでも、自分で「なかばや新聞」というチラシを作ったんですよ。それを事務所に持っていって、配りたいのでコピーしてくださいとお願いしていました。(「NAKABAYAしんぶん」)を見ながら)「見なきゃだMAY」なんて泣けますよね(笑)。


▲「NAKABAYAしんぶん」とMay’nのオーディション用プロフィール写真

西尾 ハイティーンで一番遊びたい盛りによくやっていたよね。

May’n あと、高1から芸能系の高校に進んだので、入学したときからクラスで「事務所はどこ?」みたいな話になるんですけど、そのときにホリプロという名前を出すと「おぉ」という雰囲気になるんです。でもそれほど大きな事務所でもない子もすごく売れていくのを見て、私ももっともっと努力しなきゃ、という気持ちにもなっていました。心が折れそうにもなりますけど折れている暇がない、という感じでしたね。それは私の短所でもあり長所でもあるんですけど、悩めないんですよ。悩む暇があるなら動いてしまう、というポジティブさがあるので。だから今思うと、落ち込んでいる自分に気づいてあげられていなかったかもしれない、というところはあります。マネージャーさんには弱音を吐いても良かったのかな、とか。親にも言ったことはなかったですね。

 本当に泣き言を聞いたことがないんですよ。

May’n ひょうひょうとスタジオで練習していました(笑)。勿論、お世話になっている人はいましたけど、お仕事がなくて悩んでいるとか、お仕事をくださいという話はできなかったですね。人見知りというのもありますし、大人と仕事の会話をする経験も少ないですし。でもやっぱり、まずは自分ができることを、という気持ちだったと思います。今だったら「私はこんなにやっています!」という主張もできますけど(笑)。あと、ホリプロは大きい事務所だったので所属タレントも多くて、その中でスタッフの方に気づいてもらうには誰よりも努力しないといけない、という考えもあって……。結局、自分がやらなければ、というところに戻ってくるんですよね。

 あなた、TSCの合宿審査で講演してよ。応募してきた子たちの前で。

一同 (笑)。

 そういった気持ちでやっていた人って今はなかなかいないので。

May’n 確かに。今は少ないですよね。

 多摩川の河原で発声練習もしていましたよね。

May’n はい。

西尾 え? ストーカー?

一同 (笑)。

May’n でも森さんって、寮母さんと寮のことについて話しているところを結構見ました。レッスンから帰ってきたら森さんがいる、みたいな。

 月に一回くらいは話をするようにしていたかな。

矢田部 僕も森さんからレポートをもらった記憶がありますよ。

西尾 ストーカーじゃなかった(笑)。

――でも、河原で発声練習と聞くとまるで昭和のドラマのようです。

西尾 スポ根だよね。

矢田部 (『巨人の星』の)星飛雄馬のような。

May’n でも、会社のスタジオで何時間も自主練していたら、当時のマネージャーさんに、あんなに休む間もなく5時間くらい歌い続ける子は初めてだと言われたことがあって、そういうときに「あ、見てもらえているんだ」と実感しましたね。だから、アピールする必要もなかったですし、真面目にできることをやろうと思えました。

 だから、比較的早くユニバーサルからデビューし、これまた比較的早くユニバーサルから契約が切られたんですが……。

May’n (笑)。

 そのとき、当時のチーフからは実家に帰した方がいいのだろうかという話が上がってきたんですね。で、なんてことを言うんだ、と。まだ17歳だからもうワンチャンスある、と思い、当時の音楽制作部に預けたんですが、そうしたら当時のスタッフが、『マクロス』という作品の歌オーディションがあるという話を持ってきたんです。『マクロス』といったら僕ら(昭和40年代生まれ)世代のアニメだと思ったので驚いたんですが、シリーズが続いていて新作が出るということでした。じゃあそれに賭けよう、という話になりましたね。そうしたら『マクロスF』の歌姫に決まり、人気も出て……。覚えているのは初めて赤坂BLITZでライブをやったとき(2009年1月28日、『May’n CONCERT TOUR 2009 “May’n Act”』)、終演後に行う乾杯の挨拶で確か僕は謝ったんですよね。「こちらの力不足で3年くらい苦労させてしまって申し訳なかった」って。それは、あまり仕事がない中でも毎日のように自主的にトレーニングを積んでいたとは話に聞いていたからで。普通ならやっぱり途中で諦めてしまうから。

――ちなみにMay’nさんを元々いたプロダクション2部から音楽制作部に異動させた理由というのは?

 音楽がやりたい、それ以外のタレント業をやりたいわけではないということは聞いていたのと、元々僕が音楽事業部の部長だったので。ただ、後任の者たちはオーディションに関わっていたわけではないので、一応受け入れますという話で。そこから矢田部を担当にするとかいろいろと動きがあり、その延長上に『マクロスF』のオーディションもありました。

矢田部 そうですね。当時の部長だった岡さんからだったと思いますが、僕がマネージャーをしていたタレントさんが一時期休みに入ったタイミングで呼び出されて、「(May’nの)担当をやってくれ」と言われました。ちょうど始まりのタイミングでしたね。

――預けられたときはMay’nさんをどのように売り出すというイメージだったんですか?

矢田部 当初、僕の中には中林芽依のイメージしかなかったんですよね。同じ時期に加藤ミリヤさんが活躍していて、May’nが所属していたユニバーサルシグマさんでもR&Bシンガーとして売り出すプロセスを見ていましたし、本人もそういう音楽が好きで、事務所に来てサンプルCDをいっぱい奪っていくのを見てもいたので(笑)。だから、担当するとき、まず『マクロス』のことを調べたんですよ。でも音楽を聴くと、R&Bでもダンスミュージックど真ん中でもないですよね。だから、(May’nが)やりたい気持ちがあるのか会議室で確かめたんです。本人にモチベーションがなかったら良くないので。自分自身としてもアニメソングのシーンに入るのは初めてだったし、やるからには中途半端にはできないし。ただ、その場で取り繕った答えはほしくなかったので1週間後くらいに聞くことにして、そのときは帰ってもらった記憶があります。

――覚えていらっしゃいますか?

May’n あんまり……。でも、深く考えてみます、みたいなことは絶対言わなかったと思います。

――May’nさんからの答えは?

矢田部 私は歌うことが好きなので、自分が聴いてきたR&Bは好きですけど、私は歌う事が大好きなので歌えるチャンスがあるならなんでも歌っていきたい、ということでした。

May’n 最初に『マクロスF』のオーディションの話を聞いたときは、正直アニメのことはよくわからなかったですけど、歌う場所があるならなんでもいいとやっぱり思ったんですよね。それに矢田部さんが担当になってくれたときは、いよいよ動き出すような時期だったので、お仕事が始まるワクワク感がとにかく大きかったんですよね。スケジュールが埋まることがまず嬉しくて。

矢田部 だから、「じゃあやろう」ということで始まり、名前も変えた方がいいという話をしたんですよ。

May’n 新規一転の気持ちで。

矢田部 中林芽依は本名でもありますが、ユニバーサルシグマさんと音楽を作る中での芸名でもあったから。

――それを聞いたMay’nさんとしては?

May’n 「わーい!」って(笑)。「芸名をつけられるんだ、やったー!」って喜びました(笑)。

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