今からおよそ30年前。1990年代のアニソンシーンは、多くの声優が音楽活動を活発化させ、いわゆる”声優アーティスト”がシーンを大きく盛り上げ、現在の声優が音楽活動をはじめとしたマルチな活躍を見せる礎を作り上げた時代だ。そして、林原めぐみ、椎名へきるらと共にそのシーンの中心にいたのが、声優・國府田マリ子である。『ママレード・ボーイ』での小石川光希や『GS美神』のおキヌなど数々のヒロインを演じる声優として、また数々のラジオ番組のパーソナリティとして知られる彼女は、1994年に「僕らのステキ/Harmony」でアーティストデビューを果たして以降、当時のJ-POP/J-ROCKと隣接する、現在のアニメ/声優音楽に大きな影響を与える作品を生み出してきた。
そんな彼女が今年、およそ10年ぶりとなる新作ミニアルバム『世界はまだ君を知らない』をリリースした。今回はそんな國府田マリ子の30年にわたるキャリアを、なかでも多くの名作がリリースされた1990年代にフォーカスして振り返るとともに、彼女が今だからこそ伝えたいメッセージを込めたニューアルバムについてたっぷり話を聞いた。なおインタビューには、『世界はまだ君を知らない』のプロデューサーであり、國府田がコナミレーベルに所属していた活動初期のディレクターを担当する一方で、ながつきまろん(菜芽月まろん)名義で「Twin memories」など多くの楽曲を作った前澤之伯氏も同席し、彼の視点からも國府田マリ子の音楽というものを語ってもらった。
INTERVIEW & TEXT BY 澄川龍一
――ニューアルバム『世界はまだ君を知らない』がついにリリースとなりましたが、前作『絶対的energy★キラッ』から10年ぶりのリリースとなるんですよね。
國府田マリ子 はい。10年ぶりだなんて、前澤さんに言われて気がつきました(笑)。
――その一方でライブ活動も含めておよそ30年にわたってコンスタントに歌い続けてきた印象のある國府田さんですが、やはりご自身にとって音楽は特別なもの?
國府田 はい!歌っていない自分があまり想像できないです。自分が歌いたいって思っている間はずっと歌い続けていたいと思います。
――その國府田さんにとっての音楽というものの源流を今回お伺いできればなと。
國府田 生まれたとき、母親のお腹にいたときから音楽に囲まれて育ってきたので、音楽のないところで呼吸している感覚があまりないんです。ひとり暮らしを始めていちばん最初に違和感を覚えたのは、ピアノのない生活でした。親もとで暮らしていたときは、何かあってうう~って泣いたりしたら、ピアノを弾くみたいな感じだったので、すごく生きることに密着しているもの。
――小さい頃から音楽に囲まれていた生活をされていたんですね。
國府田 家族みんなが音楽好きで、小さい頃、姉は恥ずかしがり屋なんですけど、いつも一緒にお歌をうたってくれたし、うちの父もどこでも歌っていたので、子供のときはすごく恥ずかしかった(笑)。駅のホームでも歌うし、道を歩きながらも歌うし、「お父さんやめてよ!」って言っていたのが、気がつけば自分もそうなっているという。「……あれ?」って(笑)。
――そんな幼少期を過ごされた國府田さんだけに、声優としてキャリアをスタートさせたのちに音楽活動を始めることも自然なことだった?
國府田 音楽と生きることを分けていなかったから、それを仕事にするのは考えていなかったんですけど、歌の活動ができるとなったとき、ただただ嬉しかったです。キャラクターソングのお仕事をいただいたときも、それだけで嬉しくて、あまりにもはしゃいでずっと歌っていたから、「そんなに好きだったら自分の歌を、歌ってみる?」という感じでマイケル(前澤)が言ってくださったんだと思います。ものすごく嬉しかった。
――今では珍しくないことですが、当時声優さんがオリジナル楽曲を歌うことについてはどうお考えでしたか?
國府田 奇跡が重ならなかったら、この仕事で歌を歌うということはとても難しいことだったと思います。当時、声優さんがキャラクターソングを歌うことはもう当たり前のことだったと思うんですけど、オリジナルとして歌の活動をするというのは、実績のないわたしにとっては、まさに奇跡のような出来事。だからこそ本当に嬉しかったです。
――今回はニューアルバムについてのお話はもちろん、そうした國府田さんの音楽キャリアを振り返っていきたいなと思います。まず印象的なのが、西脇辰弥さんや松原みきさん、戸沢暢美さんら錚々たるクリエイター陣が、デビュー当時のアルバム『Pure』(1994年)からすでに参加されているんですよね。
國府田 ありがとうございます!(前澤氏を指して)ブッキングした方がそこにいらっしゃいます(笑)。
前澤之伯 多くの方たちがいわゆるブレイクする直前だったんですよね。亀田(誠治)さんもまだ椎名林檎さんとお仕事をする前のことでしたし。
――現在では大御所と呼ばれる方々の、若い頃に一緒に仕事をしていたと。一方で松原みきさんのように、すでにご活躍されていたアーティストも初期から参加されていますよね。
前澤 松原さんはマリちゃん(國府田)が文化放送のラジオでパーソナリティをやっていたときに、当時の部長さんから「いい人がいる」と紹介していただいたんです。「どんな方かな?」と思ったら、「あれっ、『真夜中のドア』の人!?」って(笑)。
――松原みきさんの代表曲「真夜中のドア~Stay With Me」は、近年、全世界でリバイバルヒットしていますが、國府田さんは松原さんとも交流が深かったんですよね。
國府田 みきさんとはほとんど24時間一緒にいました。仕事が終わってそのままみきさんのいるホテルのレストランで、夜中の1時くらいにきゃあきゃあ言いながら歌詞を書いていました。あの当時はホテルのレストランもバーも、そんな時間までやっていたんですよね。
――松原さんは國府田さんの初期の音楽活動に大きな影響を与えた人物だったんですね。
國府田 本当のお姉ちゃんみたい。お互いなんでも話しました。前澤さんが、「この人は絶対にマリちゃんに合う」って紹介してくれた方は奇跡みたいに合うんです。それは音楽的センスや技術もそうだし、人間性も、人に対する愛情もみんな素晴らしくて。何かを押しつけてくるということは絶対になくて、私という人間をすごく見てくれていて、私がどんな想いを抱いているのか感じたうえで音楽を一緒に作ってくれる。私は右も左もわからない、皆さんからしたら「なんだろ、この面白い生きものは?」っていう。ただ好きなだけで歌っているわたしに、いつも愛情の塊で接してくれる現場ばかりでした。
前澤 音楽業界のルールやマナーをあまり知らなかったのが逆に良かったんだと思います。僕も含めて知ったかぶりをしなかった。僕も、当時在籍していたコナミはゲームの会社だったので、周りに音楽アーティストの制作活動をしていた先輩がいなかったんですよね。それがよかったんだと思います。
――そうしたなかで、ナチュラルに音楽制作をすることができたわけですね。それがまた当時にしても良質なポップアルバムになっていて。
前澤 それこそ、谷村有美さんの『愛は元気です。』(1991年)のクレジットを見てみてください。そのアルバムとマリちゃんの初期のアルバムのスタッフはほぼ一緒なんですよね。戸沢さんや西脇さんも、エンジニアさんもアートディレクターもそうだし。そのメンツに彼女が負けてなかったのが良かったんだと思います。
國府田 とんでもないです……。
前澤 誰々にやってもらったってただ受けるだけじゃなくて、それに負けてないという。
――國府田さんとしては、そうした現場で自分のやりたいことや想いを伝えやすい現場でしたか?
國府田 とにかく自分が歌ったものが、聴いた人の気持ちに触れないと自分にとっては歌っている意味がない、それだけです。技術的なことはわからないし、正解は1つじゃない。でも、その気持ちをみんなが受け入れてくれる現場だった。気を臆することみじんもなくそこにいられる、集中出来る。私も「こんなすごい方たちに」とならずに「じゃあこれは?」って色々なことを聞きながら本当に楽しくやらせていただけた。みんながわたしを面白がって音楽を作ってくれるんです。それが楽しかったです。
――また國府田さんとしてはデビュー当時から作詞を担当されていますよね。
國府田 作詞は戸沢(暢美)さんに鍛えられました……。「愛は元気です。」(※戸沢が作詞した谷村有美の楽曲)じゃないですけど、戸沢さんはまさに飴と鞭ならぬ、愛と鞭でした。
――國府田さんのデビュー曲「僕らのステキ」(1994年)も手がけられた、J-POPシーンでも有名な作詞家ですね。ちなみに作詞は中学生の頃からされていたそうですが、國府田さんにとって作詞することの印象はいかがでしたか?
國府田 特別なことでなく書きたいときに書いています。今朝も書いていました。「あ、この気持ち、歌にしたい」と思ったらすぐ形にしていくという感じです。デビュー当時はそれを作品にするとしたら一定のクオリティにして、商品として届けなくてはいけない。そこで作詞の猛勉強をしました。アルバム『Vivid』(1995年)の制作中はまるまる一枚戸沢さんにベタづきで教えていただきました。すっっっっごいスパルタですっっっっごい楽しかった。
――『Vivid』では13曲中11曲の歌詞を戸沢さんが手がけられていますが(うち1曲は國府田との共作)、その次作『Happy!Happy!Happy!』(1996年)では國府田さんが半分以上の楽曲で作詞に関わられています。その間に戸沢さんからのレクチャーがあったわけですね。
國府田 「とにかく思いついたことを全部送ってきなさい」って言われました。浮かんだらすぐFAX。「何枚もにしない!一枚にまとめる!」「なんでこんなに少ない歌詞のなかで同じワードを使ってるの!もったいない!書き直し!」それこそ24時間相手してくださいました。
――まさにスパルタですね……。
國府田 別に怒っているわけじゃないんです。情熱を持って教えてくださっているんです。そのテンションがすごく高いんです!!! 全然怖くないし、楽しくて、帰りは車で送ってくださったりもして。『Vivid』の制作をしていた頃は、夜中のラジオの生放送とアルバムの制作期間が重なっていて。生放送明け、眠らずにそのまま朝スタジオに入って、私は喉のコンディションが悪い。そんな私に「私が命をかけてやっている歌詞をそんな体調で歌うの?それは失礼だよね」って本気で怒ってくれた人です。
――『Vivid』というと歌手デビューして1年後のことですけど、相当叩き込まれたわけですね。
國府田 忘れられないのが、「人間はね、もがいてもがいて苦しんで苦しんで、だから美しいのよ!」って雄叫びをあげてらしたこと。とにかく熱い方でした!
――その熱量が國府田さんの音楽性を育まれていったと。作曲家やミュージシャンの方ともそうした熱量のなかで過ごされていったんですか?
國府田 みんなオープンマインドなので、西脇さん、亀田さんもそうですけど、打ち合わせのときとかキー合わせのときとかでも「なら、うちのスタジオにおいで」って呼んでくれて。本当に惜しみなく時間も愛情も注いでくださったので嬉しかった。ありがたかったです。今思えば、そんなにも恵まれた環境ってないですよね、本当に。
――そうしたなかでの國府田さんのボーカルなのですが、印象としてはデビュー時から持ち前の溌剌としたボーカルはそうですけど、一方で艶っぽさも含めた表情の幅が感じられていて、初期からすでに仕上がっているところが多いなと思うんですよね。
國府田 わあ、褒められた(嬉)。でもそれは、周りが歌をうたう精神状態を作ってくれたからなんです。私の性格を知り尽くしているというか、「このほうがマリちゃんは歌いやすい」というのを知ってくださっていて。やっぱり精神状態が少し違うだけで歌えたり歌えなかったり、良い歌が録れたり全然ダメだったり、その日によって違うから。
――それこそ、当時は声優やラジオパーソナリティのお仕事もあり、この頃から声優雑誌も創刊されて、とにかく國府田さんの稼働が増えている状況ですよね。体調面なども大変だったかと思いますが……。
國府田 体はついてこないですけど、気持ちは弾けるとってもHappy!昭和生まれは気合いで生きる(笑)。「食べられないときは寝る」「寝られないときは食べる」、あと「無理はするけど無茶はしない」という名言が数々生まれました(笑)。
――そうしたなかで、「自分の音楽はこうだ」というものも見え始めてきたのかなと。
國府田 道しるべは……自分が最初に「自分の仕事への評価」ができるのって、スタッフさん、ミュージシャンさんの表情。聴いてくださる方に届くのはその後になるので。なのでその前に自分がパフォーマンスをしたときに一緒にその場に居る、聴いていたスタッフのみんなミュージシャンのみんながすごく Happyになれてるか。「あ、マリちゃん今日調子悪いんだな」と思われていたら、自分のなかで最悪。やっぱり最初に感じてくれた「私を知ってくれている」スタッフさんが、「最高じゃん!」って思ってくれるものを作っていきました。だからそこで「疲れているから」とかという感覚は自分の中ではないんです。傍から見たらドロドロかもしれないですけど(笑)、自分の中ではめちゃめちゃ元気。
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