1977年、レイジーのボーカルとしてデビューを果たしてから数えて40年。日本のみならず世界を熱狂させるアニソン・シンガー、影山ヒロノブ。昨年から続くデビュー40周年イヤーではオリジナル・アルバム『A.O.R.』やレイジーの再始動、そして今年に入ってからは初の自叙伝「ゴールをぶっ壊せ -夢の向こう側までたどり着く技術」を発刊してきたが、その栄光の40年を総括するベスト・アルバムが日本コロムビアとランティスから同時リリースされる。これを機に今なお進化を止めないシーンのリビング・レジェンドにこれまでのキャリアをじっくり聞いた超ロング・インタビュー!
――いきなりですが、「ゴールをぶっ壊せ」拝読いたしました!
影山ヒロノブ おー!ありがとうございます!
――めちゃめちゃ面白かったです。
影山 本当ですか!
――影山さんのキャリアについて、昔からのファンはもちろん、僕もインタビューで伺ってきたエピソードが入っているのですが、もちろんあらたなエピソードもあり、そもそもレイジー解散以降に建設現場でアルバイトをしながらソロ活動をしていたエピソードなど、若いファンにとってはすごくフレッシュな話ばかりだと思います。現在のアニソン・シーンを捉えた話題など、これは非常に勉強になる一冊です!
影山 (笑)。ありがとうございます!
――という自叙伝も発刊されるなど、昨年から始まったデビュー40周年イヤーですが、改めて昨年からのアニバーサリー・イヤーを振り返ってみていかがでしたか?
影山 今までも10周年、20周年、30周年とかそれなりにいろいろやってもらったんですけど、今年は今までのなかでいちばん豪華で(笑)。本もありの、アルバムもコロムビアさんとランティスさんから両方ありの、レイジーのコンサートもやったしレイジーも久しぶりに新譜を出したし、ソロのコンサートもやって……ということで、「こんなになんかいろいろやりたい放題やっていいのかな?」っていうぐらい濃かったですね。
――リリース量も多かったですし、一方でJAM Projectの活動もありましたしね。そのなかで自叙伝の執筆も含めて40年のキャリアを振り返る機会は多かったのではないかなと。
影山 そうなんですよね、本のインタビューのときにもその当時のことは思い出すし。あと例えば40周年記念で出したアルバム『A.O.R』で、10代の頃から大好きだったデヴィッド・フォスターと初めてレコーディングを一緒にやったり、なんとか40年間やってきて「あー、続けてきてよかったなあ」って思ったし、どこかで辞めてたらそういうこともなかったような気がする。デヴィッド・フォスターと共演するとかってやっぱり夢のひとつじゃないですか。それに自分の本を出すというのも想像もしてなかったことじゃないですか(笑)。もちろん40年もやっているなんて。このタイミングで初めて体験する、経験することも出てきたので、なんというか急には40年にはならないというか(笑)。
――そんななか、今年リリースされるデビュー40周年記念アルバムとして、日本コロムビアとランティスからベスト盤がリリースされます。まずはコロムビアからの『影山ヒロノブBEST カゲちゃんパック ~君と僕の大行進~』ですが、タイトルがまた「コロちゃんパック」(コロムビアから80年代よりリリースされている絵本つき音楽ソフト)ならぬ……(笑)。
影山 そうです(笑)。タイトルもねえ、コロムビアのスタッフみんなと一緒に考えたんですよ。で、「そういえばあの頃、『コロちゃんパック』があって……」という話をしていたんですよ。まあ今もあるんですけど、そこで「そのパロディって面白いんじゃない?」って。そこで『カゲちゃんパック』っていうのは先に決まったんです。そのあと何かサブタイトルつけようよってなったとき、そういや昔“コロムビア大行進”っていうコンサートがあって、アニキ(水木一郎)とか堀江(美都子)さんとかとみんなでやってたよなぁっていう話から、じゃあその「大行進」っていう言葉使おうよっていう。
――なるほど。またこれジャケットが秀逸ですよね。
影山 (ジャケット写真の自身を指して)これコロちゃん(日本コロムビアのマスコット・キャラクター)なんですよ。
――なるほど!(笑)。いわゆる影山さんが特撮ソングやアニソンを歌い始めた80年代から90年代にかけての楽曲を中心にコンパイルした作品です。水木さんや堀江さんが活躍され始めた70年代からアニメ音楽が盛り上がり、80年代もその影響はあったのですが、影山さんや串田アキラさんがアニソンに参入された80年代のシーン、特に日本コロムビアとはどんな現場でしたか?
影山 僕がコロムビアに入ったときに、いちばん当たってるアニソンを歌っていた人はクッシー(串田)だったね。僕の『聖闘士星矢』とか『ドラゴンボールZ』のひとつ前にヒットした作品が『キン肉マン』とかで、クッシーとよく営業で一緒になりました。彼はすごくフランクな人だし、すぐ仲良くなりましたね。あの当時コロムビアは、ものすごい数のアニソンを抱えていて、アニキと堀江さんがいて、あと(ささき)いさおさんとかもいて。ほかにもたくさんのシンガーがいて、それこそ“コロムビア大行進”は「紅白歌合戦」ができるぐらいアーティストはいましたね。そんななかで、自分は女子も男子も含めていちばん若かったんですけど、自分の当時の立ち位置でいうと、アニソンや特撮の音楽がどんどんテンポが上がってハードでパワフルになって、シンガーもポピュラー・ソングのシンガーからロック・シンガーに変わるあたりだと思うんですよね。クッシーはちょっとソウルの方面なんですけど。
――特撮ソングについても「秘密戦隊ゴレンジャー」から続く流れが、70年代末にサウンドも変わってきて、影山さんがKAGE名義で歌った「電撃戦隊チェンジマン」でもビートも特殊になって、より多様化が見られました。ウワモノも電子音楽が多用されるなど、80年代的な音になってきて。そこに対応するのが、ロック・シンガーの影山さんだったと。
影山 そうですね、コロムビアの木村ディレクターに「ロック・シンガーを探してたから」って言われましたから。あのコロムビアの当時のディレクターのベテランの人たちも、もうそろそろヒーローとか特撮のそういう主題歌はロックだなってみんな思われていたみたいですね。で、ちょうどロック・シンガーを探していたら、山岸さん(山岸達治。バースデーソング社長)のところに影山くんがいたな、みたいに繋がって。
――そこは日本のみならず、海外の音楽シーンとも呼応していますよね。
影山 あの当時、親世代も演歌や歌謡曲で育ってないんですよ。もう洋楽ロックで育っている世代の親の子供たちがテレビ観るから、やっぱり家でかかってる音楽もそれこそヴァン・ヘイレンとかが絶対かかってる(笑)。そういう親の子供に聴かせるのに、やっぱり活きのいい元気なロック・サウンドがいちばんいいと思ったんじゃないですか?そこは自然の流れで。
――そうした80年代からスタートした影山さんのアニソン/特撮ソングのキャリアを網羅したという『カゲちゃんパック』全38曲ですが……。
影山 いや、実際はこんなもんじゃないですよ。全部の曲数を見たら冗談だろと思いましたね(笑)。
――そうですよね(笑)。それほど膨大な楽曲をコロムビアで生み出してきたわけですが、当時のレコーディング・スケジュールもすさまじかったのかなと。
影山影山 今の「スーパー戦隊シリーズ」ってオープニングとエンディングは違う人が歌って、アルバムもいろんなアーティストが歌うじゃないですか。俺の頃とかオープニングもエンディングも自分で歌ってアルバムも十数曲もあるから、10曲くらいひとりで歌うんですよ(笑)。それを一気に作るから、まあすごいレコーディング量だったんですね。
――それこそレイジーからソロ初期時代から比べると、歌う量も桁違いですよね。
影山 もう、すっごい多かったですね。あとアニメや特撮とかだけじゃなくって、例えば藤本ひとみさんがコバルト文庫から出した作品のイメージ・アルバムとかもあって、それもすごいスケジュールで録るんです。で、木村ディレクターとかすごい厳しいんで、「うーん、影山くんたちは普段何時間もかけて歌ってるかもしんないけど、こっちはねえ、1曲40分だよ!」って言われて「40分!?」みたいな(笑)。
――――40分ですか!
影山 そんな時代でしたね。で、録っていて「やっと乗ってきた!」って思うところで木村さんから「うーん、まあこんなもんだろう」とか言われて。めっちゃ厳しい(笑)。
――そうなると、歌う量もそうですが、レコーディングの仕方も変わってきますよね。
影山 そうですよ。あとエンジニアの人とかもめっちゃ怖かったです。ディレクター怖い、エンジニア怖い(笑)。まあ結果的にいい人なんですけどね。若いシンガーに対してちゃんと育ててやろうっていう気持ちがあるから、やっぱり厳しくなりますよね。コロムビアの最初の頃に後藤さんっていうエンジニアがいて、めちゃ怖かった。その人、ディレクターにも怖いし、俺にも怖いし(笑)。
――ディレクターにも怖いエンジニアというのもすごいですね(笑)。レコーディング中にダメ出しが入ったり……。
影山 普通ダメ出しってディレクターが言うじゃないですか、今なら「あっ、今ちょっとピッチ良くなかったんでもう一回!」とか。後藤さんは「影山、音痴、もう一回」(笑)。
――ダメ出しが短いのがまた怖いですね!(笑)。
影山 あと若いディレクターがね、後藤さんの後ろで「あ、影山さん今のよかったんで保険でもう一回!」とかって言うと、後藤さんは「バカ野郎!保険なんかいらねえだろう!」とか俺の見てる前でやるんで(笑)。コロムビアって歴史が長いから、先輩も若いやつもいてそれがすごくわかるなと。
――そうなると、当時二十代で所属ミュージシャンでも影山さんがいちばん若いわけですよね。
影山 めちゃ年下でした。たしか石原慎一(代表曲「救急戦隊ゴーゴーファイブ」など)と同い年なんですよ(石原が60年5月、影山が61年2月生まれ)。あとは全員年上ですよ(笑)。キャリアは近いけど、宮内さん(宮内タカユキ。代表曲「超電子バイオマン」など)もMojo(代表曲「バトルフィーバーJ」など)も年上だし。そういえば、最初に「チェンジマン」をレコーディングする前に、宮内さんの曲を最初に聴かされたんですよ。それまでは特撮の音楽だからもっと子供向きなものだと思っていたんですよね。そしたら木村ディレクターが「去年のスーパー戦隊だから聴いといて」って。それが「(超電子)バイオマン」で、聴いたらめちゃ歌上手くって(笑)。しかもすごく大人な感じのシンガーで、「あれ? なんか俺のイメージしてた戦隊ものじゃない」って(笑)。
――たしかに宮内さんの声はダンディなイメージですよね。
影山 宮内さんはやっぱりすごい。同業者から聴いても歌はうまいと思いましたね。自分のタイプから見ても石原慎一、宮内さんはうまいと思いました。当然アニキやクッシーもうまいんですけど、ジャンル的にアニキはポピュラーなスタイルがすごく好きだし、クッシーはソウルじゃないっすか。
――80年代当時でもアニソン/特撮ソングに携わるシンガーのバラエティ感は大きかったわけですね。
影山 ほかのレコード会社でも、そこまでアニソンを推し進めてはいなかったんじゃないですか?
――当時は他レーベルでもアニソンはありましたが、そのなかでコロムビアはアーティスト数は段違いだったという印象です。
影山 特に自分の場合は東映の……当時は東映動画って言ってたんですけど、そのなかで少年ジャンプの作品を2作続けてやったんですよ。それが『聖闘士星矢』と『ドラゴンボールZ』だったっていうのが、自分の人生とアニソン・シンガーとしての立ち位置で、超ラッキーなことにハマっちゃったという。
――まさにジャンプ黄金期で、アニメ作品も主題歌も誰もが知っているものばかりですよね。
影山 よく考えたらすごいタイトルばっかりだよね、あの頃は。
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